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南カザフスタン(アルマティ、ジャンブル、南カザフスタン、タジール・オルダ地区)は、アイシャービビ、カラハン、タラスのババジャ―ハトウンといった中世建築で有名な霊廟、トゥルケスタンのホジャアフメットヤサビといった建築群等の古い歴史と文化で有名な地域だ。更にセミレチェ(アルマトゥイ地区)の特異なスキタイ墳墓を付け加えられる。
ところでこの地区は、世界的に有名な宇宙基地バイコヌールのある地区でもあります。
Khodza Akhmed Yassawi Mauseleum
更にこの地区は気候がレクリエーション、リハビリテーション、狩猟、登山、山岳スキー、スケートに適したユニークな地区でもある。

西カザフスタン(アクトベ・アティラウ・マンギスタン州)は、ヨーロッパとアジアの交差路に位置する。カスピ海に面し、そこにはまた、ヴォルガ・ウラル油田地帯が広がる。
この地方には、世界で2番目に深い海抜を持つ低地「カルギエ盆地」〔マイナス132m〕 が、その白亜の懸崖を広げる。狩猟に適していて、魚釣りや、マリンスポーツを楽しめるのも魅力である。考古学・歴史学の分野で近年注目を浴びているこの地域には、マンギシュラック・ウチュルットなどの遺跡や、カザフの口承文学にゆかりの深い史跡を訪れることができる。

北カザフスタン(コスタナイ・北カザフスタン・パブロダル州)は、季節により多様な風景が見られる。景色やドライブ、サイクリング、水遊びといったあらゆる種類の観光レクリエーションに適している。この地方に位置するいろいろな療養のための、コクシェタウ・バヤンーアウル・ムヤルディ保養所には、治療だけではなく、日々の疲れを癒すためにバケーションに休養で訪れる人々で、特に夏はにぎわう。クルガリジノ・ナウルズ自然保護地域は、生態系研究など、学術旅行で次々と新発見のされる場所である。

中央カザフスタン(カラガンダ州)には、世界で最も大きい湖の一つ「バルハシ湖」がある。バルハシ湖の周りを、カルカラリン森林のオアシスが.包む。またこの地方には、考古学・民俗学の分野で興味深い遺跡などが太古の時代から、そのままの状態で保存されている。

東カザフスタンである、アルタイは、その山麓には森林地帯が広がり、イリ川が流れ、ザイサン・マルカコリ・アラコリ・サウスカン・などの湖がある。さまざまな動物・植物の生態群がここに暮らす。セミパラチンスクは、カザフの偉大な文学者である、アバイ・クナンバエフや、ムフタル・アウエゾフなどの故郷だ。

アスタナ
Астана

21世紀の偉大な首都「アスタナ」の物語

カザフスタンの首都アスタナは、かつてはアクモラと呼ばれたところだ。
1997年10月20日カザフスタン共和国大統領令およびカザフ共和国議会の承認を得て、1997年12月10日カザフスタン共和国の首都と宣言された。

カザフ共和国の新しい首都であるアスタナの国際的お披露目は1998年6月10日に行われた。
1920年当時のカザフスタンの当時の首都はオレンブルグ。(現在はロシア連邦に編入されている)
1925年カザフの首都はクジル・オルダに移動。更にトルキスタン、シベリア鉄道の建設が主な理由となって、アルマ・アタ(アルマ・トゥイ)に移された。
法的には1927年4月3日のことだが、実際は1929年に移転。アルマティからアクモラへの首都の移転は経済的、環境的、地理的理由から進められた。
まずにアルマティは共和国の地理的中心地から遠すぎること、更に人口が150万人に近付き、居住地が狭くなってきたことによる。
社会、経済的指数、天候、景色、地震、自然環境、生産輸送基盤、建設設備、労働力等32の指標を元に、カザフスタン全土を徹底的に検討し、アクモラが最適な年として選ばれた。

アクモラの可能性

選ばれたアクモラは、カザフスタンの地理的にはほぼ中央にあり、空路の乗り入れによって主要な経済的地域とも近く、現在の人口に対して更に40万人増加できる可能性があり、温水、冷水、電力供給の基盤が充分しっかりしている。輸送基盤のインフラも十分。自然環境もバランスがとれており、これら全ての要素がアクモラ選択決定の要因となった。
アクモラの歴史はカラウルトゥクの地にアクモラ要塞を建設した時から始まる。
"アクモラはシベリア・キルギス地区のイシム川河畔アクモラ郡の主要な都市で、この地域の地理的な中心地にあり、東はカルガリと道が通じており、南にアクタウの城砦があり、西にアトバサールがあり、これによりコクチェタクの町に通じている"と、1863年ペテルスブルグで発行されたロシア帝国の地理・統計事典に書かれている。すなわち、この時期から、この町の地理的利点が知られていたと言うことだ。
また、他の出典によると、アクモラ ステップ(草原)は、色々な国や文化との他民族交流の地でもあった。
BC1世紀の中頃、古代ギリシャの有名な歴史家ヘロドトスの言うところの大草原の道がこのアクモラの草原を通っていたと言われており、シルクロードでもあった。
数多くのキャラバンのルートに、交易や手工業によって新しい都市を生み出し、牧畜とは別に新たに増えた人口が農業に従事した。文明の始まりだ。

19世紀にもアクモラは草原における商業経済の中心地だった。1863年7月16日、アクモラは正式に地域都市として認められた。
こうした歴史的な背景もアクモラが選ばれた理由のひとつだ。

アクモラをアスタナに改名

アスタナとは「偉大な都市」と言う意味だ。
8月21日首都建設局は2000年2月カザフスタン政府によって承認されたアスタナ発展総合計画の実施を発表した。この計画策定に当たっては国際的な規模での都市計画のコンペティションが行われ日本の建築家黒川紀章氏の案が採用された。
この総合計画の主要な考え方はイシム川左岸の発展とともに新市街と旧市街の調和のとれた融合にある。新市街は川の左岸で建設される。
左岸に建設すると言うことは、このカザフスタンの首都を近代的であらゆる活動を容易にするためのもの。計画が目指しているものはイシム川とアブラク地区にレクリエーションと森のゾーンを作ることだ。また、アスタナの気候を改善するために、いくつかの湖を作ることも、計画されている。総合計画の中の一つは、市の各地区間を交通網で結び、住民が他地区に容易に移動できるようにすることだ。市は一つの有機体として機能しなければならない。既に作られたバイパス以外に、市街に更に2つの環状道路を建設する予定だ。イシム川の左岸と右岸を結ぶため、もう一つ橋を架ける工事が既に始まっている。高速鉄道も建設の予定で、地下鉄の建設も検討されている。総合計画の実施は都心の建設から始まる。

都心はイシム川左岸に3300メートル×1200メートルの長方形で置かれる。この都心の軸となるのが、100メートル幅の通りで、広場や噴水、彫刻が設けられます。またこの通りと平行して、6レーンの通りも4つ設けられる。中央には直径400メートルの円形の建設地があり、そこにカザフ オイルやトランス オイルのビルが建てられている

中央通りに沿って、オフィス ビルや、銀行、マンションが建てられつつある。

都心には、また外交関係施設も設けられます。都心の一部はイシム川の流れに沿っており、この中心広場に大統領官邸や、カザフスタン国会の上院・下院の建物が建ち並び始めた。
カザフスタンが独立して以来、初めて自国の手で建設する首都アスタナ。21世紀に相応しい機能を備えた新都市がいま完成しつつある。

アルマティ
Алматы
かの有名なヘミングウェイの妻のメリーは、アルマティを「世界で一番美しい街」と呼んだ。
空港から降りて目の中に飛び出す風景に驚くだろう。アルプスのような美しい山々に囲まれ、また、日本の古都、京都のように整備された碁盤の目の街−アルマティ。シルクロードのオアシスとして栄えたこの街は、アジアと、ヨーロッパの文化と、人が交じり合った国際都市である。
緑の多い町並みは、人々を和ませ、自然と笑い声が町中に響いている。背の高い木々は春にはみずみずしい新緑で、夏には、スッテプ独特な乾燥した太陽の光から潤いさえ与えてくれ、秋は、赤や黄に町中が覆われ、恋人たちはロマンティックな気分になる。冬になると、葉が落ちる代わりに、白銀の世界に町が変身する。以外にも、季節の変化が著しく、思い出はその風景と共に鮮明に残るだろう。
Medeo Skating Rink
「あの人親戚・友達に似ている!」という人に何人も遭遇するだろう。そのくらいカザフ人と日本人は似ている。韓国や中国人とよりも似ていて、説には、同じアルタイ系の民族で、DNAも類似しているとのことである。アルマティにいても自分が、外国人であると違和感をあまり感じない。しかし、日本との大きな違いは、多くのロシア系の民族が暮らしていることだ。

ロシア帝国の統治下の1854年、ヴェールヌィという要塞が築かれ、その後1927年からソビエト連邦の、カザフ社会主義共和国の首都となった。街を整備建設するために、入植してきたロシア人やウクライナ人たちは、その数を増やし、一時期はカザフ人30パーセント、他が70パーセントということもあったくらいだ。現在は、カザフ人が半分を占めるようになったが、それでも街を歩いていると、ブロンド髪の青目の人がいたり、日本人のような人がいたりと、面白い。

1997年12月に首都はアスタナへ移った。ナザルバーエフ大統領は、「アルマティは、カザフスタン国家の黄金のゆりかごである。ここは、私達の独立が飛び立った巣であり、カザフスタンを世界に知らしめた都市である。」という言葉を贈っている。現在でも「南の首都」と言われるアルマティは、有名な劇場や催し物会場、各国の大使館もそのまま設置されている、ビジネス、文化、学問の中心都市だ。しかしながら、アルマティの歴史は何世紀も前にさかのぼって始まる。アルマティについて残されている記録で一番古いものは、イスラム化のために訪れた、ラシード・アド・ジン(1274から1318年)がその著書「ジャミ アト タバリフ」の中で、叙述している。

 17世紀に貨幣経済が存在していたことが考古学により明らかになった。
旧青土器時代の紀元前10−9世紀にはすでにこの地では農耕と、牧畜が行われていた。
サキ族の時代にはここアルマティがこの民族の住居の拠点になっていた。また。その後は、ウスニン族が住んでいた。 この時代のものとして多くの古墳が残っている。 その中でも巨大な古墳は「サキ王古墳」 だ。 古墳内部には、天山山脈の蝦夷松から取られた丸太で作られたサキ王の霊廟があり、金で作られたよろいや、宝石で作られたベルトや、食器が共に埋葬されている。 その豪華さについては、「イッスィク」で発掘された品々を見ると伺える。.


時を経た、ウスン族時代の遺跡として、標高2300メートルの町、ザイリースキーアラタウで発掘された、「カルガリンの王冠」が挙げられる。 これは長い金の板で作られていて、その大きさは、長さ35cm、幅が4,7cm。 金の板には、全体に植物の柄を基本とし、その中に、鹿や、不死身鳥、翼の生えたトラに女性が座っており、その先には、翼の生えた馬や、羽ばたく鳥、熊。そのうえには野生の羊の模様が織り成している。
その後、8世紀後半から10世紀にかけて、アルマティに、街と定住生活が根付き、封建制度が確立した。町はシルクロードの中継地点として発展した。特にその中でも、イリ峡谷は10−13世紀の間栄えた。

資料によると、アルタトゥの語源から来ている、近世アルマティが街として機能しだしたのは、10−11世紀。 町の歴史は1000年ちょっとだ。アルマティ州がおこったのは、青土器時代からである。
アルマティは単に歴史の街だけではない。カザフスタンの中でも、豊かな自然がある街だ。

アルマティとは、「りんごの里」の意味で、遊牧がされていたときには、町中がりんごの香りに包まれていた。今では山に登ったりしなければ見られないが、アルマティっ子は、「甘くてジューシーなアルマティのりんごが一番」と、他のりんごを食べては、アルマティ産のりんご自慢をするくらいだ。
アルマティの町は、万年雪で覆われた、天山山脈に囲まれ、そのふもとには国立公園の「ザイリースキーアラタウ」がある。アルマティ郊外には鉱泉治療学を駆使した保養地が心身ともども癒してくれる。また、アルマティかr10キロほどの場所ではほかにはアフリカと、ハワイでしか見られない自然現象−川のせせらぎが山にこだまして人の歌声のように聞こえる、「歌うバラハナ」に遭遇できる

20キロほど南に行くと、昔カザフ人が遊牧民であったことを感じさせる、果てしなく続くステップ地帯に出る。

アルマティはまた、文化や、エンターテイメントの街でもある。コンサートホールや、国立競技場、劇場などもあり、最近ではカジノや娯楽施設も充実している。

街からバスで、10から15分のところに、海抜1700メートルのスケートリンクの「メデウ」がある。氷質のよいこのスケートリンクでは、スピードスケートで数々の世界記録が生まれている。スケートは12月から4月まで。
 メデウからさらに4キロのぼると、シンブラクスキー場がある。最新のリフトで、標高2000メートルからすべるのは快感である。リフトを降りた地点から、多くの人々は、山登りをする。進んでいくにつれ、空気が薄くなり、植物生態も変わってゆき、1泊2日くらいかけて、テントを張ってする山登りは本格的だ。また、頂上に鎮座する、「ナザルバエフ峰」にクライミングし、頂上から見る風景はこれまでの疲れを吹き飛ばすくらい、夢のようだ。
Charyn Canyon

また本格的な登山を楽しみたいのなら、世界的に有名な約7000メートル級の「ハンテングリ」へのアルピニズムだ。
年々、旅行者がくつろげるホテルの建設が進んでおり、その中でも有名なのが、「“ラハットーパラス”“アンカラ”“アスタナ”ホテル」である。

アルマティには国際空港があり、そこには40カ国との行き来がされている。ここには「ルフトハンザ」「トルコ航空」「トランスアエロ」「オーストリア航空」「アシアナ航空」などの会社の飛行機が就航している。

ブラバイ
Бурабай

北カザフスタンのコクシェタウに位置する、ブラバイは、カザフの「箱根」といってもいい。
黄金の果てしなく続くステップを走り続けると、思いがけない緑のオアシスに出くわす。奥へ進むと、神秘的な風景が広がる。緑の丘、石を持ち上げたような変わった形の山々、お化けや、ウサギに見える形の巨大に絶壁、魔法をかけられたかのように静かに鏡のように広がる湖など、なぞめいた独特の世界をかもし出すブラバイを訪れると、普段の疲れが一気に吹き飛ぶ自然の未知なる力からエネルギーを与えられる。

Mountain Lake ブラバイの「ブラ」はカザフ語で、らくだの意味。 ここブラバイには次のようならくだの伝説が残る。らくだはもうすぐ襲い掛かる災害を予言した。そして運命の日にらくだはコクシェタウの山より上の天に上り響き渡る雄叫びをあげ、一身にその災難を受けて、ブラバイに生きる動植物を助けた。

豊かな緑、静かな湖からは、マイナスイオンが出ていて、その中には、そういう環境でしか住めない動植物が多く住む。ブラバイではまた、石器時代の道具か発見されている。また古代集落の発掘作業により発見された青土器時代の古墳により、ここで狩猟生活だけではなく、放牧、農耕がすでに行われていたことがわかった。.また、ここでスキタイ人が鉱石や金を採掘していた跡が見つかっている。

 ブラバイにはこれといった歴史的遺跡は形として残っていないが、この場所の壮大な自然を見ると。当時の様子が不思議と浮かんでくる。

ブラバイの郊外には豊かな鉱物資源が多く埋蔵されている。.

美しい岸壁のオクジェトペック(カザフ語で「どんな矢も届かない」)または、バラバイ湖のほとりに浮かぶジュムバクタス(カザフ語で「なぞの石塊」)右写真 はエジプトのスフィンクスや、考える人もしくは牛や、らくだを彷彿させる。

ブラバイの松林では、どんな天気もどんな季節も楽しめる。冬は松林の地面も、岸壁も雪で覆われ、真っ白なキャンバスのようになる。夏は、風が樹液のいい香りを運ぶ。秋になると、森の奥から湿った樹皮、きのこや、枯れた落ち葉などの自然の香りに包まれる。

ここには18万ヘクタールの白樺林が広がる。ここにはさまざまの野草が生息する。ここには200種以上の鳥類が棲む。そんなブラバイを散歩して、空気を吸って、目で見て、音を楽しみたい。

ブラバイにある「コクシェタウ」の美しさについて、カザフ文学の始祖イリヤス・ジャンスグロフはその著書でこう書いている。

ひっそりとした松林は深くひっそりとそこにある。

湖は美しいあの人のような住んだ蒼。 丸く大きな石は湖の岸にずっしりと座っている。

山の斜面をみずみずしい草が覆い、飛んだりくっついたりする。

まるで誰かが追った絨毯のように規則的な模様を織り成している。

谷間のオアシスにはたくさんの蜂蜜が甘い香りを放っている。

コクシェタウの美しさはほかに類がない。

その森の多くの地は未踏のままで、川はアクワマリンのようだ。

丘には花々が咲き乱れ孔雀の羽の模様のように見える。

ブラバイには、有数の保養施設.がある。清潔・快適で、コムイス(馬乳酒)による伝統的な民間治療で有名だ。

カザフスタンの物語の中にいるような場所ここ、コクシェタウへは、そこに行きたい観光者全員が訪れられるよう、設備が整えられている。

カザフスタンは古代文明が存在した場所だ。 遠い昔その文明の中で暮らしていた民族こそ、現在のカザフ人の祖先にあたる。 彼らは、輝かしく、独特な文化を創った。今日まで残っているいくつかの歴史観光スポットの、古墳、城、防御施設、霊廟、そして街自身は、それぞれの違った建築スタイルで人々を楽しませてくれる。

その中でも特に独特なのが、南カザフスタンに位置する、トゥルキスタン市にある、コジャ・アフメド・ヤサウィ廟だ。(トゥルキスタンの16世紀までの町の名前は「ヤッシー」)
ヤッシーの街は、シルクロード通商ルートの分岐点だった。中央アジアステップのオアシス、タシケント、ブハラ、サマルカンドなどを含めた地域のことを当時、デシト・イ・キプチャックと外国では呼ばれていた。

このように、この街が栄えたのは、活気あふれ.る商売のおかげだった。中国からは陶磁器、ペルシアからはアジアトラの毛皮や宝石、ビサンチンからはいろんな色のビードロや金襴が運ばれてきた。ヴァリャーク人の地ルーシに向かうドイツのフランク民族は、そこに住む遊牧チュルク民族が作ったカラクル毛皮の品質の高さを評価し、大量に買っていた。また、トゥルキスタンでは、500匹以上のらくだの売買が毎日なされていた。オオヤマネコの毛皮は羊5匹分に相当した。アカシカの角を手に入れるにはたくさんの銀を積まなければ難しかった。

16から19世紀の間、トゥルキスタンはカザフのハーン(王を長にした民族集団)の城があった。

ヤッシーはコジャ・アフメドが布教・伝道した場所であった。 ここで彼は生涯のほとんどを費やし、この地で、生涯を閉じた。

コジャ・アフメドは1103年チムケント近郊の町サイラメで生を受けた。彼の最初の指導者は、有名な高僧アルスラン・バブだった。 バブ没後、コジャ・アフメドはブハラに移り、スーフィ教派の辛い修行を終了した。その後ブハラのスーフィ教徒の共同体の長を務めた。その後ヤサウィー教団を故郷ヤッシーで創設し、イスラム教の定着を成し遂げた。彼はその教えの中で、人々にいつも思いやりを持ち合うことなどを、教えた。彼の書いた詩は、広い共感を得て、デシ・イ・キプチャックを経て今では世界的なカザフ文学としてその名が知れ渡っている。63歳(ムハマドが亡くなった年齢で)殉死の代わりに地下で隠居し修行に励んだ。その後は現在も同じ敷地内に「クルウェト地下モスク」として残っている。コジャ・アフメドは1167年に息を引き取った。現在残っている霊廟は、コジャ・アフメド没後233年後の1390年代にチムールの命により、再建された。1989年から8年間にわたりこの地域でチムール軍の多くの戦争があった。そのためサライベルケの町などは全壊し、その焼き野原の跡にチムールはこの地の賢者コジャ・アフメドを偲んだ霊廟を建てた。この霊廟建設をチムールは指示しただけでなく、自らデザインなどにも取り組んだ。

この建物の前には大きな正面玄関と、ドームが何件か軒を連ねている。高さ44m、ドームの直径22m、現在中央アジアに残っている歴史建造物の中で最大級のものである。

チュルク族にとって右のような大なべである「カザン」は、団結とホスピタリティーのシンボルである。 その表面に描かれるデザインと、大きさはそれを持つものの権力の大きさを表す。トトゥルキスタンのカザンは特に芸術品としても評価が高い。(右写真) 直径 2,45m、 重さ 200tで、7種類の合金からできている。
ブルーの色鮮やかなトルコ石のドームは、青の都サマルカンドを思わせる。ムスリムの巡礼地としても有名で、方々からこの地を訪れる人があとを絶たない。
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